『夢をかなえたピアノ講師』
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第一章lamentoso

そして最後の生徒がいなくなった

「すみませんが、今日でピアノを辞めさせますので」

突然のひと言だった。レッスンを終え、じゃ来週ね、と言おうとしたタイミングだった。一瞬では理解できず、男は浮かべた作り笑いもそのままに立ちすくむしかなかった。聞き間違いであってほしいという願いは、母親の真剣な表情で見事に打ち砕かれた。

もっとも起こってほしくなかったことが、今、目の前で現実になっている。

母親に半ば強引に手を引かれ、女の子は去って行った。顔だけこちらへ向けたその子の目に表情はなかった。あるとしたら哀れみだろうか。視界からいなくなってしばらくしても、その目の残像は消えなかった。教室にたったひとり残っていた、最後の生徒―。

どのくらい立ち尽くしていただろう。男はふらふらとレッスン室に戻り、ピアノ椅子にドカッと倒れ込んだ。悔しさと疑問、怒り、後悔……あらゆる感情が渦巻いては心をかきむしる。生徒が全員辞めていった。それは、ピアノを教える者としての価値がゼロになったことを意味する。この現実をいまだ受け止められず、再び放心状態となった。

ようやく顔を上げると、ピアノの譜面台に何かがあるのに気づいた。さっきの女の子の楽譜だ。置き忘れたのか、わざと置いていったのか……やり場のない憤りにも似た感情が襲う。

「俺の何がいけないんだ!」

楽譜を床に投げつけようとして、思い留まった。噛み締めた奥歯をゆるめ、ゆっくりと楽譜を譜面台に戻す。楽譜に八つ当たりしている場合じゃないな……心でつぶやきながら、力なく笑うしかなかった。

***

男の名は三上雅人(みかみ まさと)、29歳。業界では圧倒的少数派となる男性ピアノ講師だ。東京都心にある帝国音楽大学のピアノ科を卒業後、イタリアのミラノに2年ほど音楽留学し、5年前に帰国。当時は将来への見えない不安を感じながらも、なんとか音楽で生きていこうと思っていた。しかし、現実は予想を超える厳しさだった。とにかく仕事がなかった。母校に張り出されている求人情報を頼りに、音楽教室から大学の非常勤講師まで片っ端から応募してみた。結果は惨敗。書類審査ですべてはねられた。

音大も卒業した、留学も経験している。だからどこかの講師くらいすぐになれるだろう。その考えは甘すぎた。なんの資格もない、音楽教育の現場も知らない、そんな人間を迎え入れてくれるところはどこにもなかった。

メインの仕事に、と願っていたピアニストの活動もパッとしない。ときおり昔なじみから声がかかるジョイントコンサート、歌や楽器の伴奏は、充実感の得られる仕事だ。ただ、雅人が求めていたのは、充実感というより「人から必要とされている実感」だった。雅人のピアノを聴きたい、ぜひ演奏してほしい、そんな人がいることを肌で感じることだ。だが、それが薄い。あまりに薄い。帰国直後に開いたリサイタルでは、お祝いや応援もあってそれなりに席は埋まったが、その後のコンサートでは、なかなか人が集まらなかった。知り合いや友達にチケットを買ってくれと頼み込んでいる自分が情けなかった。

「これじゃただの押し売りじゃないか!」

自分のピアノはまったく求められていない。そもそも俺なんて世の中から必要とされていないんだ……音楽を続ける意味を見失いそうになって頭を振る。そんな雅人をかろうじて支えていたのは、幼い頃からひたすらピアノと向き合ってきた事実だけだった。

出口のない迷路をさまよい歩くような不安感の中、意を決して自宅でピアノ教室を始めたのが2年ほど前。はっきり言えば、お金のためだった。軌道に乗れば、嫌々続けているアルバイトも辞められるかもしれない。ただ、雅人はピアノを教えることを極力避けてきた。子どもが苦手だったのだ。ピアノの先生としては、まさに致命的。だから「レッスン」は、出したくなかった最後のカードだった―。

雅人は音楽大学に合格して、岩手の田舎町から東京に出てきた。入り組んだ路地の奥にある古びてくすんだ2階建ての狭小住宅で、ひとり暮らしを始めた。私立の音大となれば何かとお金がかかるだろうと、東京の親戚が空き家を破格の家賃で貸してくれたのだ。音大を卒業して留学が決まったときも、ピアノや荷物をそのままにしておいてくれた。これは本当に助かった。帰国直後は、当然無職。ただでさえ家賃の高い東京で、ピアノが弾ける部屋など借りられるわけがない。しかも都心という立地。これ以上ない幸運だ。

とはいえ、親が若い頃に建てられた家屋。老朽化が至るところで目立つ。軋んで開きにくい玄関ドア、一部が割れて役目を果たさない雨どい、ヒビが目立つ外壁……おそらく誰もここがピアノ教室だとは思わないだろう。初めて来る生徒だったら、ドアを開けるのすら躊躇するかもしれないな……ため息をつくも、背に腹はかえられない。贅沢を言える身分じゃない。無理やり自分に言い聞かせ、準備に取り掛かった。

見よう見まねで作ったチラシ。ほどなく子どもが3人集まった。ようやく運が巡ってきたのか。気を良くした雅人は、簡易的なホームページも作ってみた。近隣の教室がほとんどホームページを持っていないのが幸いしたのか、問い合わせが相次いだ。あっという間に10人の生徒を抱えた雅人は、この順調な滑り出しを喜んだ。

しかし、喜びは束の間だった。生徒は集まったが長続きしないのだ。何かと理由をつけて辞めていく。他の習い事や塾に通い始めたとか、部活が忙しいからとか、大人は仕事の都合が多かった。だが、雅人はこの現実をさほど気にしなかった。彼のモットーは、去る者追わず。「辞めたいならどうぞ、どうせ生徒はまた集まるさ」と高飛車だった。

だが、半年も経つと入会の問い合わせがパタッとなくなり、一年経つころには辞める生徒が目に見えて増え始めた。これにはさすがの雅人も青ざめた。心に余裕がなくなると、生徒や保護者への対応にも影響が出始める。いつもイライラしていた。

一番の問題は、生徒が辞める本当の理由がよくわからないことだ。忙しくても、続けたければなんとかするはずだ。真因がわからなければ手の打ちようがない。そうこうするうちに、ついに生徒が最後のひとりになった。もうすぐ詰まれる将棋のような焦りを感じていたが、無情にも最後通告の瞬間はあっさりやって来た。「すみませんが、今日でピアノを辞めさせますので」―やはり自分は世の中から必要とされていないんだ。

雅人は帰国してからこれまで、生活費をまかなうためにアルバイトを続けていた。カフェのウェイターや倉庫での商品検品などを経て、今はファミリーレストランのキッチンスタッフに落ち着いている。キッチンスタッフとは名ばかりで、実は料理が苦手でもできる仕事。何より接客をしなくていいのが気に入っている。アルバイトをしていることを周囲に知られたくなかったのだ。惨めだった。ピアノを弾く時間も体力も否応なく奪われていく。まとわりつく葛藤は、アルバイトを続ける限りなくならないだろう。

***

その日も長時間の勤務だった。家に着いて疲れ果てた体で郵便受けを覗くと、一通の手紙が入っているのが見えた。部屋に入り、封を開けてみる。音大時代の恩師の退官記念パーティーの案内だった。

(西園寺〈さいおんじ〉先生も退官か……)

妥協を許さないレッスンだったが、愛情深く生徒想いの先生だった。不出来な学生だった雅人にも、とてもよくしてくれた。この実力で留学できたのは、ほとんど西園寺先生のおかげだったと言っていい。それなのにすっかり音沙汰なくしていた自分を雅人は恥じた。
(本音を言えば、こんな不甲斐ない状態で先生に会うのは気が引ける。いろんな人に近況を尋ねられれば情けなくなるに違いない。……いや、それでも、これは絶対に行くべきだ。先生にはあらためてお礼を言いたいし、いろいろ相談もできたら……)

雅人は、返信はがきの「出席」の欄にていねいにマルを書いた。

この一通の手紙が雅人の人生を大きく変えるきっかけになるとは、このときは知る由もなかった―。

恩師の退官記念パーティー

雅人はJRの駅を降りて駅前の喧騒から逃れるように、街路樹が並ぶ静かな道へと曲がった。着慣れないスーツに身を包んだ雅人は、初夏とは思えない暑さに耐えきれず、歩きながら上着を脱ぐ。この道の先に、西園寺先生の退官記念パーティーの会場がある。威厳のある佇まいの老舗ホテル。大学の謝恩会もこのホテルだった―。

卒業を迎えた頃の雅人は、未来への希望に溢れていた。憧れの街ミラノへの留学。石畳の上を歩いて音楽院に通う自分を想像してはワクワクしていた。自分には輝かしい未来が待っている。そう信じて疑わなかった。

イタリアから帰国して5年。残念ながら思い描いていた未来は、今ここにない。留学は有意義だったし、やる気満々で帰国した。だが、現実はあまりに残酷だ。まさかあの頃と同じ道を、こんな気持ちで歩くことになるとは……。

「三上センパイ!」

突然後ろから声をかけられ、驚いて振り向く。一学年下の同門の後輩、高梨俊介(たかなししゅんすけ)が立っていた。長身でひょろっとした印象は昔のまま。ジーパン姿しか見たことがなかったから、今日のスーツ姿が新鮮に映る。こじゃれた紫のチーフに目がいった。

「おー高梨かよ、久しぶり!元気にしてたか?」
「はい、そりゃもう、バリバリですよ!センパイも元気そうですね」

ガシッと交わした握手に、雅人は自分にはない覇気を感じてしまう。自信喪失のあまり、神経が過敏になっているのかもしれない。

会場までの道のりは、互いの近況報告会となった。この若さで高梨は、音楽家として順調にキャリアを積んでいるようだ。演奏活動はもちろん、ピアノ伴奏の仕事も引く手あまた。さらに映画やCM、舞台への楽曲提供と、幅広く仕事をしているという。

もともと作曲やアレンジが得意で、初見もお手の物。大学時代、交響曲のスコアを見ながらピアノでさらっと弾いてしまう後輩の才能に、雅人は嫉妬せずにはいられなかった。豊かな才能がありながら、腰は低い。相手の波長に合わせるのがうまく、誰とでも仲よくなれる。コミュニケーション能力の高さも高梨の魅力だ。きっと、どの現場でも慕われているに違いない。

「センパイのほうはどうですか?」
「ま、まあ……。演奏とかでなんとかやってるよ」

声が上ずる。余裕のなさを露呈していないか心配になった。生活費を稼ぐためにアルバイトをしているなんて、口が裂けても言えない。相手は後輩だ。カッコ悪いところは見せたくない。

「あとは家でピアノを教えたりかな……」
「えっ!教えるって、センパイがですか!?もしかして小さい子も教えてるとか……?」「……そうだけど、なんでそんなに驚くんだよ」
「だって音大のとき、子どもだけは嫌だなって言ってたじゃないですか」
「そ、そうだっけ。まぁ、その、ミラノで教育の重要性を実感したってのもあるかな……」

失業者の分際で何を偉そうなことを……と心の中で自分に突っ込みを入れる。

「あれだけ子ども嫌いだったセンパイがねぇ……」

雅人の脇にじわっと嫌な汗がにじむ。

***

退官記念パーティーは、盛大そのものだった。これだけの教え子が全国各地から集まったのは、西園寺先生のご人徳ゆえだろう。先生の演奏家仲間や門下生のほかに、各界の著名人や政治家、テレビで見る芸能人の顔も見えた。西園寺先生の人脈の広さを感じる。

舞台には挨拶に立つ西園寺先生の姿があった。学生時代が蘇る。先生のレッスンはまさに理想だった。あんな指導ができたら、と思ったことは数えきれない。ただ、今の自分じゃ到底無理だ。あぁ、どうして俺は……再び自暴自棄になりそうな雅人を救ったのは、西園寺先生のスピーチに感動したのか、隣で号泣する高梨の姿だった。……本当にいいやつだ。

盛大な拍手とともに西園寺先生のスピーチが終わった。乾杯の音頭を合図に歓談タイムに入る。会場は一気に和やかな雰囲気に包まれた。立食形式のビュッフェ。会場を囲む白いテーブルクロスの上には、豪華な料理が並ぶ。ふだん、コンビニ弁当やチェーン店の牛丼ばかりの雅人の目は、会場に入った瞬間から料理にくぎ付けだった。

久しぶりに会った同級生と連れ立って、雅人はここぞとばかりにお皿に料理を盛りつける。懐かしい顔を見つける度、歓声があがる。みんなそれぞれの道を歩んでいるんだ……。同じ時代を生きた戦友として、雅人はなんだか嬉しくなった。

まだお腹に何か入れたいなと思った雅人は、ひとり歓談の輪を離れた。目指すはリピートすると決めていたローストビーフのコーナー。会場はだいぶお酒も進んで、声のボリュームがますます上がってきている。

人の輪をいくつか通り過ぎたそのときだ。目の前の華やいだ空気に思わず足を止める。ひとりの男の姿が目に入る。背中から発するオーラ。体格の良さだけでは説明できない何かを感じる。男を取り囲む人たちの笑顔が違う。誰もがその男との時間を心から楽しんでいるように見えた。

「いったい誰なんだ……」

男の顔をよく見ようとしたそのとき―。

特別なオーラを放つ男

「彼のことが気になるかね?」

いきなり肩に手を置かれ、雅人はギクッとした。身を硬くしたまま振り向くと、今日の主役、西園寺先生の柔和な笑顔があった。先生は大柄ではないが、見るからにいい音を出しそうな恰幅の良さだ。後ろに流している豊かな白髪と、控えめなワインレッドのタキシードが品の良さを醸し出している。丸メガネの奥にある下がり気味の目尻と、髪と同じ色の口ひげが、チャーミングな印象を与える。

「西園寺先生!この度は本当におめでとうございます!」
「ありがとう。三上君も忙しいところ来てくれて嬉しいよ」
「すっかりご無沙汰をしてしまい、申し訳ありません」
「ミラノから帰国して……」
「5年です」
「もうそんなになるか。最近はどうだい?」

一瞬言葉に詰まったが、今日の主役を独り占めできるわけもなく、当たり障りのない近況報告ですませてしまった。本当は仕事の悩みも話したかったが、華やかな場と不甲斐ない自分があまりに不釣り合いでやめた。他の門下生が会話の隙を狙ってチラチラこちらを見ている。先生の斜め後ろに順番待ちの列もでき始めた。先生はそれに気づくと、「じゃ三上君、頑張ってね」と握手の手を伸ばす。

***

アルコールのせいか、あるいは人の熱気のせいなのか、雅人は軽い疲労感に襲われ、ひとりロビーへと向かった。会場の喧騒がドアの向こうに消えると、将来への不安が否応なしに押し寄せてきた。西園寺先生の年齢に達したとき、いったい自分はどうしているだろう……。

そのときだった。後方から会話する2人の男の声が耳に入ってきた。

「何せ、一度どん底を味わったからな、俺は」
「ショックだったよ。佐伯はクラシック業界から干された、そんな噂が一気に広まって、そのまま音信不通だもんな。門下の期待の星だったからね、お前は」
「若気の至りとはいえ、西園寺先生の顔をまる潰しにした……ほんと、弟子として最低だよ。それなのに、こんな自分を先生は許してくださった……」
「とにかく、よくあの状況から這い上がってきたと思うよ。今じゃ、立派な会社経営者だもんな。俺が自主企画公演を実現できたのも、佐伯の援助のおかげ。干された業界に、今や貢献をしている。やっぱりお前はただ者じゃなかったね」
「いやいや、まだまだこれからだよ」

(どん底から這い上がった!?)

聞き耳を立てていた雅人は、ドアに向かう風体でさり気なく振り向き男たちを見た。こちらを向いて立っていたのは、なんとあのオーラの男だった。もっと会話を聞いていたかったが、立ち止まるわけにもいかず、雅人は再び会場へと戻っていった。

「幸せな人生を送る秘訣を教えてください!」

パーティーが終わりにさしかかる頃、雅人は西園寺先生が手招きしているのに気づいた。先生の隣には、どん底から這い上がったという、あのオーラの男が立っていた。

「紹介しよう。佐伯宗一郎君だ。こちらは三上雅人君」
「はじめまして、佐伯です。私も西園寺門下です」

慣れた握手の感じから、海外暮らしの経験があるのではと推察した。肩幅の広い黒のタキシードは、がっしりした体格に合わせたオーダーメイドだろう。近くで見ると、彫りの深さが際立つ。推察するに40代後半だろうか。精悍な顔立ちは、イタリア留学時代に見た英雄の彫刻を想起させた。

「佐伯君はね、複数の飲食店を切り盛りする経営者なんだ。結構なやり手でね」

西園寺先生の紹介によると、佐伯は20代で世界的なコンクールに入賞し、ピアニストとして華々しくスタートをきった。恵まれたルックスもあって、当時はメディアでもよく取り上げられていたそうだ。だが、ある日突然の演奏活動休止宣言。このことは業界でもかなり話題になったらしい。

「生意気でしたよね。自分が弾きたいものを弾かせろ、自分はアイドルじゃない、アーティストだ。新米のくせに気に入らない仕事は断る。私の代わりならいくらでもいるというのに……。愛想をつかされて当然ですよ。人間的に未熟で、西園寺先生にも多大なご迷惑をおかけしました……余計なプライドが多くの人を傷つけることになって……本当に申し訳なく思っています」

ピアニスト休止宣言のあと、すっかりなりを潜めていた佐伯。だが、何年か後に西園寺先生は、佐伯から突如、会社設立の知らせを受け取ることになる。

「ピアニストから一転、経営者になっていたとは驚いたよ」
「グランドピアノのあるレストラン、グランドピアノのあるカフェ、それにバー。結局、どこかで音楽とつながっていたい気持ちが強くて、飲食店にもかかわらず、どの店も楽器と音響には相当こだわりました。先生の音楽への尽きることのない愛を、ずっと間近で見てきましたから……。挫折から立ち直ることができたのは、見捨てずに支えてくださった先生のおかげです」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。そうそう、数年前から君の会社が始めたっていう社会貢献活動。若手音楽家の支援とか……音楽イベントへの協賛。あれ、業界で話題だよ。うちの門下生もお世話になっているようだね」
「何かの形でご恩返しができないか、起業したころからずっと考えていたんですよ。少しでもお役立ていただいているなら、本業のほうの励みにもなります」

雅人はあることを思い出した。

「あの……もしかして池袋の、グランドピアノがある『カフェSAEKI』って、佐伯さんのお店ですか?」
「ご存じなんですか。そう、あそこが初めて手掛けた第一号店なんですよ」
「友達に伴奏を頼まれたときの会場が『カフェSAEKI』だったんです。ホント、響きも素晴らしいし、雰囲気もいいし、食べ物も美味しかったです」
「気に入っていただけたようで光栄です」
「お父様が飲食店を経営していらっしゃるとか……?」
「いえ、まったくの素人が未知の世界に乗り込みました」
「それはすごいですね!」
「さすがに猛勉強しましたよ。いくつかの繁盛店でアルバイトをして経験を積んで、人脈を広げつつ、ビジネスや経営、それから人間学も学びましたね」

西園寺先生は目を細めながら雅人のほうへ視線を移すと、少し大げさな口調で言った。

「若手音楽家の支援といっても、佐伯君の場合は金銭面だけじゃない。自分の経験をもとに、音楽家として大切なこととか、幸せで豊かな人生を送る秘訣まで教えているらしいよ。おかげで、佐伯君の指導を受けた演奏家の卵たちは、業界でとても評判がいいんだ」

そこへ、女性のホールスタッフがそっとやって来て、西園寺先生に耳打ちをした。会の終わりが近いのだろう。西園寺先生は、佐伯に向かって意味ありげに目配せし、何もなかったかのように2人を交互に見て、

「ではご両人、ぜひ最後まで楽しんでいってくれたまえ。今日は本当にありがとう」

と言いながら片手を挙げて踵を返すと、控え室のほうへと向かっていった。残された2人。佐伯は腕時計を見て、申し訳なさそうに言った。

「すみません、三上さん。会の途中なんですが、私はこれから用があるので失礼させていただきますね」

雅人に別れの握手を求めてきた。少し躊躇しながら差し出された右手を握る。その瞬間―。雅人は足から頭へ向けて突き抜ける稲妻のような衝撃を感じた。駆り立てられるように両手で佐伯の手を強く握りしめ、抑え切れずに言った。

「わ、私は、今、どん底を味わっています。私にも幸せな人生を送る秘訣を教えてください!」

口走った直後、雅人の胸に襲ってきたのは失態への後悔だった。

(しまった……何やってんだ俺は。初めて会った人にこんなバカげたことを言うなんて……)

佐伯は一瞬ポカンとした後、(そういう……ことか)と小さく笑った。そして、佐伯から目をそらしたまま、この場をなんとか取り繕おうと焦りまくる雅人に、落ち着いた口調で、こう言った。

「わかりました。では来週の水曜日の朝9時に会いましょう。すべてはそこからです」

佐伯は雅人の手をさらにしっかりと握り、そして柔らかく離した。

言い渡された条件

雅人は、緊張の面持ちで水をひと口飲んだ。飲み口が薄い、唇の当たりが繊細なグラス。テーブルに置く手が微かに震えている。水滴でグラスの表面に指の形が残った。

新宿駅からほど近い高層ホテルの32階にあるラウンジ。雅人は待ち合わせをしていた。西園寺先生の退官記念パーティーで出会った、あのどん底から這い上がったという男だ。

待ち合わせに指定してきたのは、ふだん昼近くまで寝ている雅人にとっては、朝早い時間帯。起きられるかどうか心配で、昨夜は何度も目を覚ました。時計を見ると午前6時。完全に目が冴えてしまい、これ以上眠るのをあきらめた。おかげで待ち合わせ場所には、かなり余裕を持って到着できた。遅刻が日常茶飯事、間に合っても時間ギリギリの雅人にとって、これは異例の出来事だった。

心を落ち着けるために、窓の外を見る。遠くの空に飛行船が浮かんでいた。動いているのか止まっているのか……ぼーっと見つめていたそのとき、

「三上さん、お待たせしました」

雅人は慌てて立とうとして、テーブルに膝を打ちつけてしまった。よく通る声の主は、もちろんあの男、佐伯宗一郎(さえき そういちろう)だ。膝をさする雅人を微笑みながら気遣う。金色の腕時計を一瞥して言った。

「待ち合わせの時間よりずっと前ですね、素晴らしい。あらためまして、佐伯宗一郎です」

彼はさっと右手を出すと、がっしりと握手を交わした。その手から伝わってくるのは、できる男の「自信」だった。

「三上雅人です。今日は、お、お時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。またお会いできて嬉しいです」

佐伯に座るように促され、雅人は機械仕掛けの人形みたいにギクシャクした動きでソファに腰かけた。今、目の前に佐伯がいる。雅人は完全に気後れしていた。自分から願い出ておきながら、あの勢いはどこへいったのか。佐伯は慣れた感じでウェイターに注文をすると、単刀直入に切り出した。

「さっそくですが、三上さんは私に何をお聞きになりたいのですか?」

佐伯は軽く手を組み、真剣な眼差しで雅人を見つめて言った。

「はい、あの、そうですね……」

上ずる声をなんとかしようと、雅人は小さく深呼吸をした。前もって考えてきたことを伝えるタイミングだ。

「退官記念パーティーでの西園寺先生のお話、それから佐伯さんのこれまでのことをお聞きして、私は大切なことを思い出したんです。自分が音楽に助けられて生きてきたこと、ピアノを通して多くのことを学んできたこと……つまり、音楽、ピアノの素晴らしさです。故郷の恩師や西園寺先生、留学時代の先生が教えてくださったことの奥深さは計り知れません。その教えを自分だけのものにするべきではない。ピアノの素晴らしさを含めて、これからたくさんの人に教え、伝えていきたい!そう心から思ったんです」

静かに頷くと、佐伯は確認した。

「これからピアノ指導者として生きていく、ということですね?」
「そうです……ただ、私は、立ち上げたピアノ教室を2年ほどで潰しました。その原因がわからず、苦しんでいます」

雅人は、教室を開いたがすべての生徒が辞めてしまったこと、もう一度ピアノ講師として一からやり直したいと思っていることを伝えた。佐伯は黙って雅人の話を聴いていた。話が終わると、ウェイターが持ってきたアイスカフェオレをひと口飲んで、おもむろに口を開いた。

「三上さん、ひとつ質問させてください」
「あっ、はい、なんでしょう?」
「あなたにとって、ピアノ講師としての成功とはなんですか?」

そんなこと考えたこともない。雅人は戸惑った。どう答えれば正解なのか。佐伯はどんな答えを期待しているのか……考えはまとまらず、結局、正直な思いを恐る恐る伝えた。

「……生徒がたくさんいることでしょうか」
「なるほど、それがあなたの成功の定義ですね?」
「えぇ、まぁ、生徒が多ければ収入が増えて生活が安定しますから、もうアルバイトに頼らずにすみますし……ピアノ指導者として生計を立てることができれば、とりあえず、プロとして認められたって実感できそうな気が……」

自嘲気味に笑いながら話す雅人の目を、佐伯はじっと見つめながら聴いていた。

「三上さん、残念ですが、このままではあなたはピアノ講師として成功できないでしょう」

佐伯の口から出た想定外の言葉に、雅人の顔が一瞬でこわばった。あまりの衝撃でワナワナと唇が震える。

「……ど、どうしてですか!?」

やっとの思いで言葉を押し出した。

「その答えと、あなたが失敗した理由は大きく関係します。それがわかれば、あなたがピアノ講師として成功する確率はぐんと高まるでしょう」
「……さ、佐伯さん、ぜひ、教えてもらえませんか?その答えを……」

佐伯は思案するように、ゆっくりともう一度、アイスカフェオレを飲む。

「いいでしょう。ただし条件があります。それをクリアできたら、あなたにピアノ講師として成功する方法をお教えしましょう」
「条件……というのは……?」
「今日から1カ月以内に著名なピアノ指導者5人に会ってきてください。その5人から、『レッスンで大切にしていることとその理由』を聴き出してくる。これが条件です」
「1カ月で5人……」

雅人はすでに心の中でぼやいていた。コネもない自分にクリアなどできるわけがない。そんな心の内を読んだのか、佐伯は雅人の目をまっすぐ見つめ、きっぱり言った。

「私はあなたが本当に自分を変えたいと思っているのか確かめたいんです。少しでも生半可な気持ちがあるなら、あなたは何も変わらない。教える意味がないんです。三上さんは西園寺門下の後輩ですし、もし本気だとわかったら、私は無償であなたに講義しましょう。私の会社が取り組む若手音楽家への支援の一環としてね」
「……」
「チャレンジしますか?」

生活費にも事欠く雅人にとって、無償は涙が出るほど有り難い。ただ、30を目前にした男が、レッスンの真髄を乞うために頭を下げて歩く……そもそも見も知らぬ人間に、著名な先生方が会ってくれるのだろうか……人一倍プライドの高い雅人の胸をよぎったのは、その1カ月が今まで以上に屈辱的な日々になるのではないか、という嫌な予感だった。下唇を噛んで打ち震える動揺と闘いながら、しばし押し黙っていた。が、意を決して佐伯に告げた。

「……やってみます。正直、自信はありませんが、とにかく全力を尽くします」

雅人の決意は早くも揺らいでいたが、それを佐伯に悟られないように大きく首を縦に振った。

「いいでしょう。では課題を達成できたら、私に連絡してください。タイムリミットは1カ月後の今日ですよ。健闘を祈っています」

***

佐伯と別れた後、雅人はうつむき加減で新宿駅へと歩いていた。意気消沈している惨めな姿を隠す余裕もない。前から歩いて来る人にぶつかりそうになって、弱々しい声で謝った。

「あなたはこのままでは成功できない」

佐伯に言われた言葉が頭の中を支配していた。やはり自分に非があったのだ。目をそむけてきた現実。雅人は突然息苦しさを感じ、人ごみを避けて裏道にふらふらと入っていった。

佐伯は何が問題なのか見抜いたらしい。ではなぜ、その答えを教えてくれないのか?
俺が本気じゃないとでも?雅人は自分の中に佐伯を憎む気持ちが芽生えたことに大きなショックを受けた。あれほど心動かされたじゃないか。雅人はあまりの惨めさに、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。

時計を見ると、まだ昼前であることに雅人は驚いた。すでに丸1日以上経ったかのような疲労感だ。何から手をつければいいのか……。著名な先生どころか、同業の知り合いすら思いつかない。西園寺門下のコネを使ってはいけないと佐伯に言われたときには、切り札を失った気分だった。再び後悔の念がよぎる。とにかく時間がない。今すぐ何か動かなければ……。

駅の改札を通った雅人は、行先未定のまま山手線に飛び乗った。人の流れにつられるように池袋駅で降りると、足は楽器店に向かっていた。母校の帝国音楽大学にもほど近い、大手楽器メーカーのお店だ。

わずかに曲線を描く階段を上がって書籍コーナーに直行した。「ピアノ指導法」と書かれたコーナーには、たくさんの関連書籍が並んでいる。時代とともに、レッスン法もトレンドも刻一刻と変化しているのだ。しばらくあれこれ棚を物色していると、ふと雑誌コーナーがあることに気づいた。ピアノ指導者のための月刊誌を手に取ってパラパラめくる。レッスンの特集記事、コンサート情報に続いて、全国のセミナー情報が目に留まった。雅人はピンとひらめいた。

「そうか、セミナーか!」

セミナーに登壇するのはおよそ著名な先生だ。セミナーに参加して挨拶をすれば、もしかして話を聞かせてもらえるかもしれない。雅人は月刊誌を閉じると、迷いなくレジに向かった。

(第一章lamentoso・完)